魔王ケイブリス 第二章 『リーザス陥落』







  五話 病室の二人




「はっ・・・!」
「り、リック?」
 リーザス城、天才病院の一部屋。
「う、え? あ、レイラさんですか・・・?」
「どうしたの、急に起き上がったりして。まだ食事の時間じゃないわよ、あと十分くらいかしら」
「・・・そうみたいですね」
 赤い夕日が照らすベッドに、リック・アディスンは横になっていた。
 体中に包帯が巻かれ、とくに肩と腰椎部が念入りに手入れされている。
 けれど、なんど包帯を取り替えたところで数刻の後には膿がべっとり付着するのだ。
「夢でも見てたの? なんだかとっても苦しそうで・・・リック、聞いてる?」
「え? あ、ああ聞いています」
「なによ、ぼ〜っとしたくせに」
 不安げにレイラが覗き込んだが、リックはレイラを見ずに呟いた。
 この数日、夢見が悪い。エクスが・・・親友エクス・バンケットが死ぬ夢ばかりが襲ってくる。
 エクスがリーザスを発って二日、なんだか嫌な予感が絶えないのだ。
 エクスなら上手く話を纏められると思うし、エクス以外に魔人と話し合いができる人間はいないだろう。
 そもそも、リーザスに待機する将軍自体、数える程しかいないのだ。
 負傷したメナド、メルフェイス、リック・・・負傷していない唯一の将軍、レイラ。
 あ、そういえばシィルさんもいるか。
「・・・」
 チラリと横を見る。相変わらず、いつ起きてもレイラが病室にいる。
 一日の大半を眠っているリックだが、ふとした調子で目が覚める。すると必ずレイラがいるのだ。
 しばらくリックと談笑し、アーヤの回診を二人で待つ。
 診察が終わりリックの容態を尋ねると、レイラは病室を後にする。
 リックが眠っている間はリーザス城広間に詰めているらしいが、
 『いま戦況はどうなっている?』と聞いても、何にも教えてくれない。
 ただ、『リックは早く怪我を治してくれればいいの』と言うばかり。
「レイラさん・・・最近僕のことを、将軍と呼ばないですね」
 ふとリックは呟いた。あれ、僕は何をいってるんだ?
「え? え、ええっとっ・・・」
「以前は『リック将軍』と呼ばれていた気がするのですが・・・いつから『リック』と呼ばれ始めたのか・・・」
 二人が付き合い始めたのは一年程遡るが、依然として『リック将軍』『レイラさん』と呼び合っていた。
 それに少なくともスードリ平原に出陣した時も、『リック将軍、ご無事で』と挨拶していた。
 ということは、それよりあとで『リック将軍』が『リック』になったわけだ。
 『リック』の響きは嫌いではないが、どうも調子がでない。こんなとき、ヘルメットがあれば、と思う。
「ま、まぁ別に大した問題ではないですね」
 俯いてしまったレイラ、慌てて言葉を継ぐ。
「『リック将軍』と呼ばれても、『リック』でも、僕は僕に代わらないですから」
「リックって呼ばれるのは・・・嫌?」
「そんな事はないです。けど、ははは、なんだかキングに呼ばれているみたいで」
 プライベートで『リック』と呼び捨てる人間なら、いくらかいる。白の将、エクス・バンケット。
 けれど、パブリックな場でも呼び捨てにするのはリア、そしてランスくらいだ。
 リアは王女なので当然臣下を呼び捨てる訳だが、ランスだけは冒険者の頃から一貫して『リック』だった。
 レイラから『リック』と呼ばれると、なんだかランスを彷彿とさせる。
「はは・・・」
 リア、ランス、エクス、加えてレイラ。この四人を並べてみて、ふとリックは可笑しく思った。
「?」
「いえ。ただ、僕を呼び捨てにするのは、みんな年下の人ばかりだなって」
 リアが十歳下で、ランスが八歳下。エクスは三歳下に、レイラが六歳下。気づいてみれば年下ばかりだ。
 そういえば十一歳したのジュリアからは、『リックちゃん』とちゃんづけだ。
「正直、ちょっと照れくさいかな。ははは」
「やっぱり・・・『リック将軍』の方がいいかしら?
 そ、そうよね、私が呼び捨てでリックが『レイラさん』じゃ可笑しいわね」
「あっ、でも『リック』って呼ばれることは好きなんですよ?」
 もじもじと手で鎧を弄るレイラ。なんだかとても哀しそうで、リックは自分が凄く悪いことをしたような気分になった。
「将軍と呼ばれると・・・体が緊張しちゃって、駄目なんですよ。
 メットが在れば大丈夫なんですが、朝起きるときに『将軍、起きてください』なんていわれると、体が震えてしまいますし」
 何をいえばいいのかよく解らないが、とにかくリックなりのフォローだ。
「おかげで僕の朝が一番早いんですからね。夜は夜で、僕が真っ先に寝てしまいますから」
 リックは、暗闇が怖い。モンスターも怖い。お化けが怖い。
 暗くて狭い通路には、すべからくお化けがいると信じている。
 信じているというか、いるものはいるのだから仕方ない。
 幸い今まで出くわしたことはないけれど、それは運が良かっただけだ。
「と、とにかく『リック』というのは嫌いではないんです」
 照れくさいけれど・・・本心だ。そうだ、真っ暗な暗闇の中で声が聞こえた気がする。
 スードリ平原からリーザスへ敗走するさなか、リックは暗黒に包まれていた。そんななかで、
 『リック!』
 『リック、リーザスはもうすぐだからっ』
 『すぐそこなんだから、しっかりしなさいッ』――。
 思い出した。
 レイラが『リック』と呼ぶようになったのはあれからだ。
 死の縁を彷徨っていたリックに縋り付き、ただただ呼びかけ続けた時間。
 一日半に渡り、ひたすらリックを励まし続けた経過。そうだ、それで『将軍』が『リック』になったのか。
「嫌いではない・・・いえ、それどころか好きですよ。
 ・・・『リック』と呼ばれれば、あ、暖かい気持ちになります」
「え?」
「いや、ははは、なんとなく、です。なんとなくホッとするんです。
 ですから僕のことは『リック』でお願いしたいですね」

 弱弱しいながらも確りした口調だった。

「リック、呼び捨てされても構わないの?」

「ええ、むしろ望むところ――っ!」

 レイラにニッコリ微笑もうとした時だった。

「っ――!」

 それまで穏やかに会話していたのが、突然顔を顰め歯を食いしばる。
 くっ、来てしまったか・・・、この痛みめっ。前触れも無く発作的に襲って来るんだ、畜生っ。
 く、くくく、ぐぐぐぐっ。
 この数日、比較的順調に回復したかに見えたリックではあった。
 けれど、その実態はリックの懸命な演技の賜物に過ぎなかった。
 常に体内に違和感を覚え、常に熱を帯びた傷口に苛まれ、数刻を置いて迫り来る激痛を押し殺す。
 顔には苦痛を出さず、軽口を絶やさない日常は虚構に過ぎなかった。
「り、リックっ」
「くっ・・・だ、大丈夫です。少し、少しだけ傷が疼いてしまって、は、ははは」
 懸命に作り笑顔を。ベッドの端から出した両手を握り締め、体を抉られるような感覚に耐える。
 本当は体に力を入れると、それだけで傷が開くそうなので力は入れない方がいい。
 けれども我慢できないのだ、力が入ってしまうのだ。目をクッと瞑り、ギリギリと掌を圧迫する。
 爪が食い込んで血が滲み出した手、と――。
 ポン
「・・・」
 迫り来る何かに耐えているリック。そんなリックの握り拳をレイラの手がソッと包んだ。
 ゴツゴツした掌に、柔らかな感触が加えられる。
「・・・う、くそっ」
 リックは気づいているのだろうか?
 リックの演技など児戯に等しいまがいもの、エクスは別としてもレイラは騙されてなんかいない。
 リックの傷が怖ろしく深いものであり、
 今以て治癒の見込みが立っていない事、そもそも完全に治癒するかさえ疑わしいこと。
 アーヤが『まだ〜怪我をされて数日で〜、はっきりしたことはいえませんけれど〜』と前置きして語った言葉、
 『治るかどうか、わからないです〜』
「大丈夫、私がついてるわ。絶対、絶対離れないから」
 唇をかみ締める横顔に、心の中から話しかける。
「可哀想に・・・。リック・・・あなた、どれだけ無茶をしたらそんなに傷だらけになっちゃうの?」
 包んだ手から伝わってくる温もり。小刻みに震える振動と、熱。熱い。
「私、アーヤ先生から全部聞いてるのよ?
 リックがどれだけ辛いか、苦しいか、どんなに酷い怪我なのか、全部知ってるのよ?」


――――――
 リックの手術が済み、個室に運び込まれた所。枕元に駆けつけたレイラを捕まえ、いつもの口調で語りかける。
 『リック将軍は〜命は取り留めました〜。けれど〜怪我の方はとっても重くて〜あとは本人の自力次第です〜。
  リック将軍には〜当分明るい見通しを話して下さい〜』
 命は取り留めた・・・つまり、リックは死にはしない。そう聞いただけで、へなへなと床に膝まづくレイラ。
 やった、良かったよ、良かったよ・・・。
 けれど事態は決して楽観を許さなかった。
 『モンスターの爪から毒が入り込んでいます〜。
  毒があちこちを融かしていて〜いちおう患部は除去したのですが〜除去しきれているかは解りません〜』
 哀しそうにベットの男を見て、アーヤ・藤之宮はこう結んだ。
 『ものすごく酷い傷なんです〜。もしかしたら、両足を切断しないといけないかもしれないんです〜。
  傷が一週間たっても悪化し続けたら〜・・・本当にどうしようもないですから〜・・・』
 驚愕の瞳、ボヤァーと瞼を持ち上げるレイラに、
 『気を強く持つこと〜これが一番の傷薬です〜。
  傷の進行度はちゃんと御知らせしますから〜なんとか将軍を励ましてください〜』
 現実を突きつけるアーヤからは、何故だかリンゴの匂いがした。
――――――


 知らないうちに、擦るように、なぜるように包み込む掌。
 ゴツゴツと節くれだって、筋肉が覆った指の、その一本一本がいとおしい。
「リック・・・痛む?」
 解りきったこと。リック・アディスンが苦しんでいるのだ、痛み、いかばかりのものだろうか。
 けれども尋ねずにはいられない。『痛い』と打ち明け、自分の胸で泣いて欲しい。
「ははは、た、大したことありませんから・・・。ちょっと傷口が開いたみたいですね・・・」
 しわがれた笑みを口元に浮かべ、気丈にも平気を装う。そうだ、他人に弱音を吐くような男じゃなかった。
 暗闇とお化けにめっぽう弱いが、それ以外で他人に気遣いをさせはしない。
「・・・」
 握り合った手に力を込める。
 レイラが思う。リックの痛み、分かち合いたい。私にも苦しみを分けて欲しい。
 しかし現実にレイラが出来ることは、こうしてしっかり手を繋ぐだけ。人肌の温もりで、リックの心を暖めるだけ。
 ううん、独りよがりなんかじゃないもの。
 苦しいとき、辛い時・・・誰かが側にいなければ、どんなに強い人間も壊れてしまう。
 私がリックを支えてみせる――。
「はぁ、ふぅぅ」
 大きく息を吸い込むと、レイラの中で握り締められた手から、ホゥと硬さが消えていった。
 ゆっくり瞼が持ち上がり、苦痛の色が消えてゆく。
「・・・リック?」
「いえ、少しだけ痛みがあったのですが・・・どうやら消えてくれたみたいで」
 クルリと首を倒す。そして、二人の目があった。
「し、心配をかけたようですが、もう、本当に大丈夫です」
 少し、顔が赤い。
 あれ?
 なんだか、リックの顔がいつもより大きく見えるけど?
 大きいっていうか、近い?
 リックの荒い息遣いが聞こえる。
「あ、あの、レイラ・・・さん?」
 赤らんだ顔が、揺れる。小刻みに揺れて、視線がウロウロと彷徨う。レイラと目があってもすぐに逸れてゆく。
「・・・リック」
 苦しげな息遣いが去り、苦悶の悶えが表から消えたこと。嬉しい。
 そうだ、リックは生きている。生きていて、痛みや苦しみを乗り越えて、またいつもの偉丈夫に戻ってくれる。
 アーヤ先生はリックが『毒に負ける』ような言葉を口にしたけれど、そんなわけは無い。
 しげしげと美しい金髪を眺めている。
「・・・」
 素敵な色だと思う。金色でも、男性の金髪は稀。少なくとも、リーザス武将に男の金髪はいない。
 これだけ輝いているリックなのだ、絶対に毒など打ち負かしてくれる。
 このまま寝たきりになるなんて、ありえない。自分が、そうはさせない。
 くじけそうになったり、痛みに負けそうになったり、そんな時こそ私がしっかりしなければ・・・っ。
 様々な考えが脳裏を走る中、レイラはにじり寄る様にしてリックへ近づいていった。
 ギュッ
 リックの腕を抱え、胸元へひしと抱き寄せる。厚い胸板に、そっと自分の鼻を擦り付ける。
 体が自然に相手をいたわり、少しでも暖めてあげたい。ソッと、傷に触らないよう静かに体を預けてゆく。
「えっと、あの、僕はもう大丈夫で、ですが、え?」
 胸板の硬さ、服を通じて伝わってくる。でも、暖かくは無い。汗でグショグショに濡れていて、驚くほど冷たい。
 部屋が暑いわけでは決してなく、この汗はリックの身体が毒と闘っている証なのだろう。
 冷え切った身体が汗をかくなんて、いったいどれ程の苦痛が潜んでいるのだろうか?
 いたわしい。まるで自分が斬られるような、そんな感情が咳き上げてきて、
「えっ、え、あ――」
 ピッタリ密着させたまま、レイラの腕がリックの首へと伸びていた。
 僅かに残っていた傷の痛みは部屋の隅に退散し、動機が、胸の高鳴りが。
「・・・」
 いつのまにか、互いの鼻が触れ合うまでに寄り添っていた二人だった。
 もっともレイラが一方的に顔を寄せただけではあるが。
 トットッと脈打つリックの心音を感じながら、レイラは瞳を閉じる。リックの息遣いが心地いい。
 大丈夫、私が貴方を守るんだから。いっつも守ってもらってるけど、今は、今だけは私が――。
 チュ
 不器用な、ただ閉じた唇が触れただけの。カサカサに乾いたリックの唇が、すこしづつ湿り気を帯びてゆく。
「・・・ゴクリ」
 クピリと喉を鳴らすと、リックの腕が持ち上がった。自分に身体を預けるレイラに、そおっと腕をまとわらせる。
 心臓がバクバク鳴り響き、うまく事態が把握できていないけれど、ただ、これだけはいえる。
 レイラが・・・暖かい。
 手をキュッと握ったぬくもり、胸にポンと落ちた額の温もり、首筋に回された腕の温もり、唇の熱。
 この温もりが、もっと欲しい。いまの自分には、熱が必要なのだ。
 苦しみと、迫り来る魔物が凍えた風を吹きつける。そんな寒さを弾くだけの、絶対的な太陽が欲しい。
 そして、いま太陽が彼の手中にある。
「・・・」
 グッ
 しなだれかかったレイラの腰を、思い切り握り締めたかった。
 けれど、手にこめられる力のなんとか細いことだろう。
 そうか、いまの僕には、レイラさんを思い切り抱きしめることすら出来ないのか。
 こんなに、こんなに暖かいのにっ。
「ん・・・」
 腕が腰に伸び、レイラが呻きをこぼす。
 くそっ、どうして僕はこうなんだっ。
 元気なときに、身体が自由に動くうちに、レイラさんを心行くまで抱きしめておかなかったんだ。
 知らないうちに下唇を巻き込んで、ギュッと歯を立てたリックだった。と、
「っ」
 首筋に回された腕に力が籠もる。傷に遠慮し形だけだったのが、グイと身体を寄せ付ける。
 密着させる、抱きついてゆく。
 ・・・暖かい。レイラさん、貴方は――。
 強く抱きしめたまま、瞬間レイラが顔を離した。
「リックは、リックは私より強いんだからね・・・? 私よりずっと――っ」
 キュウッ
 深々と接する体温と人肌。熱情に身を委ねつつも、まるで少年と少女のようにふれるだけの接吻。
 けれど、口を通して行き来する空気は、どんな接吻よりも甘かった。





―――数十分後―――
「くっ・・・」
 リックの病室、アーヤが包帯を取り替えている。レイラはついさっき執務室へ戻っていった。
「ぐ・・・」
 包帯にこびり付いた膿が、ツンと鼻にかかる。匂いのキツさが、昨日よりも激しくなっているようだ。
 膿が減っていないのだろうか?
 傷がふさがっていないのだろうか?
「もうすこしです〜ジッとしててくださいね〜」
 相変わらずのんびりした物言いだ。のんびりしすぎて、ついつい痛みを忘れてしまう。
 そうだ、痛みといえば肩の痛みだ。
 あんまり長い間強く抱きしめ合っていたせいで、レイラが部屋を出て行ってからずっと痛む。
 口付けの間はなんにも痛まなかったのに、不思議だ。それに痛いことは痛いのだけれど、なんというか、悪くない。
 傷がジンジン痺れるのも、膿がぬるりと垂れるのも悪くない気分だ。
 なにしろ、その場所で自分はレイラを感じていたのだから。
「ふぅぅ〜」
 一通り包帯を取り替えてから、アーヤは大きな吐息をついた。
「はぁ」
 つられるようにして、リックも呼気を吐く。真っ白で清潔な包帯は傷口に優しい。
「はい〜今日はこれでお仕舞いです〜。明日の朝取替えに来ますから〜もうおやすみですね〜」
「ええ、ありがとうございました」
「ぐっすり眠ってくださいね〜。寝る子は育つっていいますからね〜」
「おやすみなさい」
 頓珍漢なセリフを残し、笑顔で病室を後にする。本当に緊張感の無い人だ、と思う。
 いつでもどこでもマイペースで、まるで春風のようだ。話していると眠くなる。
 腰の爪痕が痛むけれど、なんだかとても気持ちがいい。今日は――どうやら眠れそうだな。
 枕元に手を伸ばし、魔法ランプをオフにする。
 灯りが落ちて暗闇に包まれる直前、リックの視線は果物バスケットを捉えていた。
 それは、リンゴがつまったレイラ持参のバスケット。今日も、三つほど食べさせてもらった。
 暗闇が。暗闇が訪れる。まぁ暗闇といっても、薄暗い程度なんだけれど。
 いつもなら・・・すぐに布団を頭まで被り、ビクビクしながら眠る。
 けれど、今日はどこか安心して脅えることもない。
 思い出す。
「初めて・・・だったな・・・」
 剣術一筋に生きてきたリックにとって、口付けをかわす機会など無かった。
 あこがれない、といえば嘘になる。現にマリスの口元ばかり見ていた時期もあった。
 女性の丸い唇に対する憧れがあった。けれど、一度も経験は無かった。
 なにしろ人前でもメットをつけたままなので、口付けの出来ない道理である。
「付き合い始めたのに、キスもしていなかったのか・・・」
 マリスへの片思いが破れ、レイラから突然の告白を受けて。
 結局付き合い始めたはいいものの、表面上は何一つ代わらない二人だった。
「はは・・・僕らしい」
 乾いた笑い。笑った直後に顔を顰める。やはり、横隔膜の急な運動は下半身に響く。
「僕は臆病だからね。みんなは信じてくれないけれど、いつでも何かに怯えているんだ」
 独り言。病室には防音が聞いていて、リックの声だけがシンと鳴る。
「女性にも、怯えていたんだけれど・・・。レイラさんは・・・もう怖くないな」
 怖くない。そうだ、マリスさんに告白する時どれだけ自分が竦んでいたか。
 今にも崩れそうな足で、震える声で、自分が何を言っているかも忘れそうになるくらい緊張して。
 メットを外していたならば、きっと何にもいえなかったろう。
 ところが、レイラさんはどうか?
 メットを外しているのに、普通に喋れる。抱きしめることも、キスだってできた。
 行為の最中沸き起こる気持ちは、恐怖でも緊張でもなく、とても優しい気持ちだった。
「きっと、レイラさんは僕が臆病だって知ってるからだろうな」
 リックの本性が他の人間よりもずば抜けて強い・・・わけではないこと。レイラはそこを理解している。
 だから、リックが格好をつける必要なんてこれっぽっちもない。だからメットなしでもリラックスできるんだろう。
「本当は、こんなこと考えてる場合じゃないんだろうな」
 緩みかけた眼差しが、ほんの少し厳しさを増す。今は戦争中で、それもかつて無い窮地に陥っている。
 誰も詳しい戦況を教えてはくれないが、すくなくとも赤の軍・青の軍が壊滅している。
 加えてランスが行方不明。
 ともかくリーザス軍全体が叩きのめされ、まさに崩壊しようとしている時。
「僕も一刻も早く戦列に復帰し、リーザスを守らなければならないんだ・・・そうだ」
 頭からレイラが離れない。いまでも肌触り、柔らかさが腕に残る。
「傷を治すためにも、休めるうちに回復しなければ・・・」
 ほかにも考えたいことはある。心配事だって山ほどある。
 メナドの怪我、メルフェイスの困憊、スードリ平原戦闘の帰趨。エクスの会談、魔人の襲来、ゼス戦線の行方。
 数え上げればきりが無い。渦をなして巻き起こる不安をひとまず思慮の外へほうりだす。
 今、リックがすること――いや、できることは一つしかない。良く眠り、良く食べること。
「リーザスを、皆を守るんだろ・・・?」
 彼の使命、仕事。大きくゆっくり息を吸い、そして、
「レイラさんを・・・守るんだぞ・・・」
 静かに、けれど確信をもって眠りに落ちてゆくリック・アディスン。
 常人ならとうに死んでいる筈の傷を抱えていながら、これほどに鮮明な意識を持つ。
 甘い感情に流されつつも武人の本分を忘れてはいない。
 迫り来る嵐を感じつつも、穏やかな寝息を立てていた。
 




 ・・・あとがき・・・
 五話お仕舞いです。
 一言で言えば、レイラとリックラブラブシーン。
 別に伏線でもなんでもなくて、単なるラブシーンです。
 確かリックは童貞だったと思うのですが、違いましたっけ?
 ともかく、なんとなく書いてみたワンシーンでした。(冬彦)















TOPへ      

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送