魔王ケイブリス 第四章 『魔王城にて』






  二話 青とピンク





 黒い霧が立ち込める地下に潜む城・魔王城。その魔王城に、黒とは相容れない色の髪をもつ少女の姿があった。
 城三階ベランダの手すりに持たれかかり、遠い目で薄暗い闇を眺めている。
 ピンク色をした、艶やかな長い髪が腰の辺りまで届いていた。
 もこもこヘアーは、どこにも見当たらない。けれど彼女がシィルなのだ。
 茶髪の青年と共に世界を巡った少女、シィル・プラインが変貌を遂げた姿である。



 魔王城は広く、暗く、そして重い。
 雰囲気が重いだけでなく、実際に身体が押しつぶされるような感触が蔓延していた。
 城自体が大地にポッカリ空いた穴に収まっているせいもあり、靄や硫黄臭といった重い空気が淀むせいもある。
 また風は城上空を素通りし、開け放たれた窓からは僅かな光以外風もなにも入っては来ない。
 朝も昼も夕方たいした違いはなく、ただ訪れるモンスターだけが時刻をおぼろげに知らせてくれる。
 今は夜だと、シィル・プラインは見当をつけた。
 城の周囲に茂る草むらから飛び出すダークチッピが見えたからである。
 確か、ダークチッピや最強魔女は夜行性だったはずだ。
 本当はモンスターで確認せずとも夜だということくらいはわかる。何故か?
 マリス・アマリリスが先刻ケイブリスの元に出向いたからだ。
 彼女と魔王が交わる時は――以前は一日中だったが――ここ一ヶ月は夜と決まっている。
 マリス自身がこれから魔王と交わる旨を言い残すわけではないが、
 部屋を出るときの足取りでシィルはなんとなく理解できるようになっていた。
「お月様、今日は見えるかな?」
 二階のベランダに出て空を仰ぐ。月どころか、雲すら見えない。
 一面に立ち込めた霧らしき靄がぼんやり光っている。
 けれど靄を知覚できるということは、どこかから光が降り注いでいるということだ。
 きっと自分には見えないけれど、月はちゃあんと空に輝いている。
 けれど、自分には見ることが出来ない。
「……見えないです」
 しばらく上を見上げてシィルは寂しそうに俯いた。
 仮に見えたとしてもなんにもなりはしないのに、どういうわけか月が見たかった。
 月じゃなくてもいい。太陽でもいい。肌に感じる風でもいい。木でもいい。
 魔人領に自生する、うっそうと蔦が絡まる木じゃなく、リーザスで、アイスで見かけた当たり前な木でもいい。
 自分が昔見た――人間だった頃に見た光景が見たかった。
 見るだけで、シィルも、そして彼女の主人であるマリスも昔に戻れるような気がするのだ。
 けれどもシィルが持つほんのささやかな願掛けすら神様はかなえてくれないらしい。
 靄が晴れる気配もなく、身体も冷えてきたのでシィルはベランダから部屋に戻った。
 魔王城三階、一番奥に位置する部屋がシィルに与えられている。
 奇しくもリーザスでシィルが与えられた部屋と全く同じ位置なのは、マリスなりの思いやりだシィルには思われた。
 そのマリスが暮らす部屋はシィルの部屋と繋がっている。
 室内調度もリーザスにいた頃と変わらないものばかりだ。
 材質こそ全く違うが、ベッドがあり、鏡台があり、箪笥があり、椅子が二つ置いてある。
 片方の椅子は鏡台前に固定しているて、もう一方はベッド脇にさりげなく置いている。
 リーザスにいた頃、シィルが『ランスが訪れた時のために買った』椅子と同じでフカフカの椅子だ。
 すべて、マリスがどこからか調達してくれた。シィル自身が選んだものは何もない。
 部屋の位置も、魔王城という城も、なにもかもすべてマリスが用意してくれた。
 シィルは淡々と受け入れるしかないのだ。
 『マリスの使徒』という己の立場も。
 シャッとカーテンを閉じ、廊下に足音がしないかどうか耳を澄ます。
 マリスが部屋を出てから直に三時間経つ頃合だ。
「そろそろマリス様がお戻りになられる……」
 鏡台に跪き、シィルはそっと手を組んだ。
「今夜は、ご無事でありますように」
 無事とは? 言うまでもなく、ケイブリスとの交わりを指す。
 ここに来て落ち着いた感もある二人。しかし最初は言葉もないほど凄まじかった。
 シィルは鮮明に覚えている。魔王城で二度目にマリスを見たときの光景を、だ。


――――――
 この部屋で目覚めたとき、マリスだけが枕元にいて、
 戸惑うシィルに『絶対にこの部屋を出てはいけません』と言い残して去っていった。
 それから一週間後、飢えと乾きで朦朧となったシィルの元に、ボロボロになってマリスは帰ってきた。
 肌は裂け、全身血の痕跡が見当たらない場所はないほど赤く染まり、一歩、また一歩とあるく姿があった。
 姿勢こそしゃんとなっていたものの、意識がないのは明らかだった。
 マリスは、あくまでマリスらしく毅然としながら床へ崩れた。
――――――


 真剣に祈るシィル。
 キュッと結んだ口元からは、純粋にマリスの身体を気遣う気持ち以外なんの感情も見て取れない。
 例えば、『リーザス城で自分を売った女に対する憎しみ』や、『仇に対する呪い』といった負の感情は皆無だった。
「どうか、どうかマリス様をいたわってくれますよう……。 あっ」
 コツコツ。
 耳の片隅にヒールが石造りの床を叩く音が聞えた。裾を払って立ち上がり扉に駆け寄るシィル。
 音で解る。耳障りで乱暴な足音ばかりば跋扈する城内において、唯一落ち着いた足音。
 扉が開き、物憂げに腕を組んだ上半身が姿を見せる。
 室内の温度が数度下がったように感じながら、シィルは深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「……」
「お怪我はありませんか? あ……よかった……」
 数時間ぶりに見たマリスは気だるそうだった。しかし、マリスから血の匂いはしない。
 足取りもしっかりしているし、今晩の交わりも落ち着いたものだったらしいことが、シィルは素直に嬉しかった。
 シィルがマリスに対して抱く感情は、とても一言で言い表せないくらい絡み合っている。
 恨み、憎しみ、哀しみ、悲しみ……喜び以外のあらゆる感情が篭っている。けれどそれとこれとは別だ。
 たとえマリスが憎かろうと、マリスが傷つくころに喜びを見出すようなシィルではない。
 ほぅ、と安堵の溜息を漏らす。すると、マリスの左肩口だけラバースーツが膨らんでいることに気がついた。
 そっと手を伸ばすと一筋だけ盛り上がった部位があった。
「? マリス様、これは?」
 おもむろに手を触れる。そこだけが氷のように冷たかった。
 マリスという、全身から冷気を放つ存在にあって際立っていた。
「肩?」
 マリスは組んだ腕を解き、右手をソッと左肩にあてた。確かに冷たい。
 魔人になって、温度に対する感覚が極めて鈍くなったのに冷たいのだから、かなりの冷たさだ。
 ピツツ
 捲り上げるようにして、ラバースーツをズリ下げる。ラバーだから引っ張れば伸びる。 
 ペリッ。瘡蓋を無理矢理剥がしたような感触がして、マリスは『ああそうか』と一人頷く。
「きゃっ!」
 露わになった肩は、真皮まで破け、肌色でなく赤色が支配していた。
「たっ、大変ですっ。マリス様、この椅子に座ってください」
 おたおたとシィルが椅子を持ってくる。マリスがシィルの部屋にあった椅子を模して調達した椅子だ。
 傷口を横目に腰を下ろすマリス。
 傷事態は全然大したことはない。傷がついた原因もマリスは理解している。
 魔王がマリスに放った体液を凍らせることで身体から取り除いた時、肩の液体だけはがれてくれなかったらしい。
 そのままスーツを着込み、今しがたスーツを脱いだ際に凍った液体が皮膚まで持っていってしまっただけだ。
 軽微な傷なのでほっといても一時間くらいで治るだろう。
 でも、一時間もかからないで済みそうだ……肩を包む暖かさを感じてマリスは思った。
「痛いの痛いの……飛んでいけ……ヒーリング!」
 幼い掛け声とともに唱える神聖魔法が冷え切った体を温めてくれる。
 傷事態が治癒する感触よりもむしろ、シィルの暖かさの方が心地いい。
 ポァァ。
 魔人の身体は魔人にしか傷つけられないが、ついた傷は使徒でも治せるものらしい。
 使徒……いうまでもなくシィル・プラインのことだ。『凍りの魔人』ことマリス・アマリリスがもつ唯一の使徒。
 シィルという使徒は、様々な意味で他の魔人が持つ使徒とは意味が異なる。
 普通ならば魔人にもっとも気に入られた者が使徒になる。
 使徒化には『自分に尽くす存在への褒美』という意味もあるのだ。
 使徒になりたくない者を無理矢理使徒にした例なんて聞いたことがない。けれどシィルは違う。
 マリスは気を失っているシィルを、魔王の目の前で使徒化した。
 細く、血管が透けて見えるほど白い首筋に牙をつきたて、自分の体液を流し込むと同時にシィルの血を啜った。
 シィルなら自分の使徒になるくらいなら死を選ぶだろうと予測した上で……使徒にした。
 別に使徒が欲しかったからではない。人間だった頃のシィルに愛情をもっていたからではない。
 ただ、リックを氷付けにしてリーザス城四階へ赴くと、シィルを抱えて上機嫌に笑う魔王がいた。
 魔王が『こいつは生かして城へ連れてく』というから、『それならば私めの使徒に』といったまでである。
 こうしてシィルはマリスのモノになった。モノではあるが、しかしマリスはシィルを自分のモノとは見ていない。
 この点も同様に魔人・使徒の関係としては異例である。
「痛いの……飛んでいけ。飛んでいけ……」
 優しく落ち着いた声が聞える。シィルは、よくマリスに尽くしてくれる。
 マリスは、シィルが自分の被害者であることを正確に理解していた。
 自ら魔王の生贄にすべく部屋から連れ出し、予定通り魔王の犠牲者に仕立て上げたのだから当たり前である。
 とはいえリアを守るためだし、結果的にリアが守れたのだから無駄な犠牲ではない。
 無駄じゃないからといって、シィルに対する罪悪感が消えることはない。
 マリスは、自分がどれだけ罪深い人間……いや、魔人かを理解している。
 ただ一人、リアを守るためという理由で余りにも多くの人間を犠牲にしてしまった。
 後悔は皆無。しかし、リック、レイラ、エクスをはじめ何十万という人間を死地に追いやったことは事実。
 自分が犯した罪を償う……そこまでマリスは傲慢ではない。自分が地獄に落ちることは決定済みだ。
 しかし、既に事実として何十万という人間が死んだ。死んだ以上、マリスには殺した責任がある。
 責任の果たし方として正しいかどうかは解らない。
 が、マリスは自分が人類代表となって、一人で魔王を受け止めるつもりだった。
 リアは別格としても、魔王が不幸にする人間は自分一人で抑えてみせる……この気持ちの延長として、
 マリスはシィルを使徒にしたのだ。マリスにとって、シィルはあくまで人間であってモノではない。


――――――
 とはいえ、マリスが魔王を甘く見ていたことは否めないだろう。
 例えリアを愛しく思う気持ちは永遠に激しく燃え続けるとしても
 ――いや、間違いなく永遠にどこまでも高く燃え上がるだろうが――
 魔王が一言、『リアをその手で絞め殺せ』といえばマリスはそうするしかない。
 自分の気持ちなんて何の効力も持たないと知った今、かつての決意は空々しい響きしか持たない。
 現に、マリスは魔王から人類統治方針を任され、次々とかつての知人に死を投げかけている。
 所詮、魔人は魔王のモノなのだ……。
――――――


「ありがとう。十分です」
 マリスはおもむろにはだけたスーツをたくし、ほっておけばいつまでも続きそうな暖かい呪文を遮った。
「もう痛みは引きましたか?」
「ええ」
「そうですか、よかったです。それであの、他にも痛いところは?」
「……」
 マリスは無言で首を振った。もともと肩だって痛みはなかった。ただ、皮が破けただけである。
 魔王によって痛みに慣らされた身体は、常人が痛いと思う傷なんて毛ほども感じなくなっていた。
「これからどうなさいますか? お食事でしたら少し……あの、カレー饅頭ですけど用意しています。
 それともお湯をつかわれますか?」
 呪文詠唱を終え、シィルが尋ねる。長年ランスの奴隷をしていただけあってソツがない。
「結構です。日も遅いですし、今日は直ぐに眠ります」
「解りました。お布団は支度できてますので。お休みなさい」
 ペコリ。静かに一礼したシィルに鷹揚に頷き返し、マリスは部屋の奥に設えた扉に向かった。
 マリスとシィルの部屋は一続きになっているので、自室に入ろうとすればシィルの部屋を通ることになる。
 マリスが振り向かないことは解っている。けれどもシィルは、扉が閉まる音がするまで頭を上げようとしなかった。
 深くお辞儀したせいで、マリスのようにサラサラになってしまった髪が顔にかかった。
 髪で視界が遮られることに慣れていないせいで、つい昔みたいにお辞儀してしまう。
 物心ついた頃からもこもこと頭上に収まっていた髪は、シィルの瞼を覆いはしなかった。
 しかし、癖が抜けて素直になった髪はシィルが思うとおりに動いてくれない。
 どうして癖が抜けたのか、シィルには解らない。
 きっとマリスの血が体内に入ったせいで髪質も変わったのだろう、と漠然と理解している。
 次第に部屋の温度が上がってゆく。昔のマリスも『冷たい』『冷静』といった形容詞をもっていた。
 今では物理的に『冷たく』なった。一緒にいるだけで周囲の人間を寒くする。
 肩に触れてかじかんだ掌にも温もりが戻ってきた。シィルはまだ青白さが抜けない手にハァーと息を吹きかける。
 触れただけで凍えるマリスの身体が痛々しい。他人に触れる都度自分が冷たい魔人だと思い知らされるからだ。
 きっとマリスは『人間であること』と同時に『温もり』も捨ててしまったんだろう。

――――――
 常に自分が魔人だと認識しなければならないマリスと違い、
 シィルは鏡を見ない限り変わった自分と向き合わずに済む。
 鏡を見て、すっかりロングヘアが板についた自分を見ない限り現実から逃げることができる。
 部屋から出ない限り魔物と合うこともないし、魔人・魔王といった目上のものから苛められることもない。
 食事もメイドが運んできてくれるので部屋から出ずに済ませられる。
 基本的にはリーザス城にいた頃とたいして変わらない生活を送っている。
 全てマリスの計らいのおかげだ。シィルはランスという魔人が最も忌み嫌う人間を愛した女。
 である以上、シィルを嬲りたいと思っている輩は数多くいるはず。
 しかしマリスがシィルと自分の部屋を繋げ、誰一人入れないおかげでシィルが脅かされることはない。
 実際、シィルが窮地に陥ったことは一度もないのだ。
 一度だけアレフガルドという魔物が来て、シィルを貸して欲しいとマリスに申し入れたことがある。
 なんでも彼の主人・メディウサがランスを愛した女を見てみたいそうだ。
 けれどマリスは丁重に断った。魔人としては新参で立場も弱いのに、毅然として断ってくれた。
 シィルが、自分が守られていると一番実感したのはこのときだった。
 シィル一人が魔人から忘れられたように、魔王城一室で静かな生活をしていた。
――――――

 ピッチリ閉まった扉を見つめるシィルは悲しかった。
 マリスが抱える苦しみが解るだけに、どうマリスに接するべきか解らなくてもどかしいのだ。
 素直に罵倒できればどれだけ楽だろうか?
 その気になりさえすれば、マリスを非難する材料には事欠かない。
 そしてシィルにはマリスを責める資格が十二分にある。
 けれども、シィルにはマリスを責めることが出来なかった。
 マリスが魔王にズタズタにされた光景を見たからでもあるし、マリスが自分を大切に扱ってくれるせいもある。
 マリスが魔人であり、自分がマリスの使徒だという理由もある。
 けれど一番大きな理由は、マリスの気持ちまでシィルには理解できてしまうからだ。
 マリスがリアを思う気持ち……きっと自分が茶髪の青年を思う気持ちと同じくらい重いのだろう。
 シィルはマリスを許してなんかいない。マリスが摂った行為を心の底から憎んでいる。
 自分が生贄にされたことに対する怒りというよりは、自分の都合で他人を犠牲にしたこと自体を憎んでいる。
 マリスに、『あなたは間違っている』と言い切ることもできる。
 しかし……それでもシィルは、魔人・マリスを憎みきれずにいた。
「……可哀想」
 ポツリと呟く。
 リアという我侭な少女に魅かれ過ぎたせいで、とほうもない業苦を背負ってしまった女性に対する素直な気持ちだ。
 きっと明日も魔王はマリスを抱くだろう。マリスは望まぬ相手に尽くす苦しみを味わうだろう。
 なにしろ魔王こそがリアを脅かす張本人であり、リーザスを滅亡に追い込んだ当事者だ。
 シィルにとっては愛する人の仇にあたる。
 そんな憎んでも憎み足らない相手に屈服する苦しみはいかばかりか、シィルには想像もつかない。
 これから数十、数百年にわたって続く日々の重みにマリスは耐えられるだろうか?
 うな垂れてベッドに向かうシィル。と、ふと鏡に映った自分が目に入った。
 見たくもないロングヘアーが見えてしまった。
 ……まるで自分じゃないみたいだ。
 普段なら直ぐに目を逸らすのだけど、今晩のシィルは違った。
 ゆっくり鏡台に歩み寄り、ジッと鏡を見据える。
「あなたも……あなたも可哀想です」
 鏡に映った見慣れぬ人間、いや使徒に話しかける。
「だって……だってあなたはシィルじゃないんですよ?」
 シィルは、シィル・プラインという人間はこんなに疲れた表情はしていない。
 こんな滑らかな髪じゃない。明るくて、元気があって、前向きだった。
 だからシィルが見ている影はシィルではない。シィルのまるで知らない人格だ。
 シィルは前向きに、ひたすら前を向いて先を行く緑の鎧と茶色い髪の毛を見つめていた。
 鏡の中の別人の目には、茶色も緑も映っていない。
「もう二度とランス様にお会いできないんですよ?」
 人間だったシィル・プラインは、ランスが生きていると信じていた。ランスが死ぬなんて信じていなかった。
 しかし、もし生きていたとしても使徒シィルとは相容れない人間、ランス。
 全ては取り返しのつかない次元に進んでいる。
 全魔人と敵対するランスと魔人の使徒が落ち着いてしゃべったりできるはずがない。
 会った瞬間にお互いを殺しあわねばならないのだ。だったら……二度と会ってはいけない。
 自分がランスに殺されることは構わない。ただ、ランスに刃を向ける存在に成り下がった自分なんて見たくない。
 だから、会わない。会えない。会いたくても、人間だった自分が、今の自分とランスの会合を許せない。
 シィルは穏やかに語り続けた。冷えた体から込み上げる熱いものを感じつつも、務めて平静に言葉を紡ぐ。
「ランス様と一緒に歩くこと、できると思いますか?
 冒険のお手伝い、できますか? ごはん……へんでろぱとか、ピンク……ウニューンとか……」
 コクン。小さく息を呑む。と同時に鏡に映った見慣れない使徒の喉も動いた。
「……っ。つ、つくらせてもらえますか? 一緒にお布団に入れてもらえますか?
 い、いったいあなたに何が出来るんですか? あなたがランス様に出来ることってなんですか?
 ……できないんですよね……だから、だから」
 ツー。シィルと向き合っている目から一滴、塩辛い水が流れた。
 自分の頬にも熱い流れを感じる。耐えられなくなって鏡から目を背ける。
「あなたが……あたしが……ランス様に出来ること……なんですか? な、なにかありますか……?
 ぅ、一つでもあるのなら、教えて下さいランス様ぁ……」
 両手で顔を覆い、途切れ途切れに自分に問う。言葉の合間に嗚咽が漏れ、身体が小刻みに震えている。
 特に上半身がピクッ、ピクッと上下する。
 答えは解り切っている。解り切っているからこそ、自分がシィルだと認められないのだ。
 ランスの傍で笑うことが出来ないシィルなんて、シィルにとってシィルじゃない。
 自分が自分でなくなってしまった。鏡を見るたび痛感する。
 シィルは……自分は、もうランスと暮らせたシィルじゃない。
 シィルは顔を覆っていた手を下ろした。真っ赤な目をして、濡れた頬で、でも笑顔で。
 空っぽな笑顔を浮べている。立ち上がり、ゆっくり窓に歩き出す。
「で、でも、泣いてちゃ駄目なんですよね……。いつも泣くなっていってくれたこと、覚えてます。
 ランス様に泣くなっていわれてもよく泣きましたけど。だけど」
 僅かにカーテンを開くと、靄で曇った空が見える。
 シィルは心の中で月をイメージし、イメージの月に顔を向けた。
「シィルは……シィル・プラインはランス様と一緒に暮らせて幸せでした。
 ……もう、ランス様がご存知のシィルはいなくなってしまいましたけど、
 とっても幸せだったからきっと悔いなんてないんです。全部ランス様のおかげです」
 心の中でお礼を言う。
 もし本人にこんなことをいえば、
 きっと『生意気だ、奴隷の癖に!』なんていいながらポカリと頭を叩かれるんだろう。
 心の中で呟いただけなのに、シィルは頭を叩かれたような痛みを感じた。
 何千、何万回と感じた痛みは忘れる事なんて出来ない。
「ランス様……シィルはもうお傍にいけません。ランス様の奴隷失格です……ごめんなさい。そして……」
 ペコリ。チョコンと頭を下げた拍子に髪が顔にかかる。手で払おうともせず、しばらくジッと動かない。
 と、ピンク色をした唇が静かに開いた。声を伴わず、ゆっくりと動く。
 唇は、『ありがとうございました』というように、動いた。
 シィルが見据える先に月はあるのだろうか? 靄の向こうでお月様は光っているのだろうか?
 地底に聳えるここ魔王城からは伺い知れない事象である。





 シィルが空にお辞儀をして、水を一滴落とした頃。
 アイスの町からラジールへと続く夜道。
「わぁ、お月様が綺麗ねえ」
「ぶすっ」
「ねぇねぇ見てみなさいよ。ホラ、嘘みたいに真ん丸よ?」
「むすっ……」
 無理に明るく振舞おうとするかなみと、口を真一文字に結んだ青年が歩いている。
「とっても綺……」
「ええいうるさい! 月ごときではしゃぐんじゃねぇ!」
 ポカッ
「きゃうっ! い、痛ぁ」
「くだらないこと言うからだ。いいか、さっさとラジールに行くぞ!」
「うう、痛いぃ……ちょっとランス!」
「ふんっ!」
 いきなりかなみをポカリとやったあと、蹲るかなみを振り返りもせず青年はスタスタ先へ行く。
 女に手をあげることを躊躇いもせず、子供のような膨れっ面で、夜空に光る月を睨んで歩き続ける。
 ごく普通の生地でできた布の服を纏い、トレードマークの緑鎧もつけない青年。旧リーザス王、ランスだ。
 彼は今しがた第二の故郷ともいえるアイスの町を抜けたところである。
 アイスの町によったということは、つまり自分の実家を覗いたということ。
 狭いながらも、彼が自分で稼いだお金で買った、思い出がいっぱい詰まった家を、だ。
 けれど、そこには思い出の片鱗すら見当たらなかった。
「ふんっ」
 思い出ならたくさんある。壊れた目覚まし、ラレラレ石、ベッドの下に詰まれたエロ本、エッチな石像。
 そして、誰よりもたくさん抱いた女との日々。
「ふん……」
 感傷に浸る男ではない。
 たとえ、自分が住んでいた家が木っ端微塵に砕かれ、
 燃えカスしか残っていなかったとしても、これっぽっちも気にしない。
 魔人への怒りが増すだけ、魔王への憎しみがふえるだけ……の筈だ。
 間違っても『誰かが自分を待っている』なんて思ってはいない。
 そう、アイツはリーザス城に捕まっているのだから、もともとアイスにいるはずがないのだ。
 月を睨む。満月だ。
 青年は満月が好きくない。あまりにも丸すぎて、かえって気持ちが悪いのだ。
 綺麗なことは確かだけれど、ちょこっと欠けていた方がより好みである。
 傷一つない月を見ていると、ムラムラと苛立ちが込み上げてきて、青年は落ちていた石ころを思い切り蹴飛ばした。
「待ってろよ……絶対助けて、思い切りお仕置きしてやる……!」
 小気味よく飛んでいった石に一瞥をくれると、青年は一人呟いた。
 そんな青年の数メートル後ろで、かなみが胸を撫で下ろす。
 どうやら青年は実家が壊されたのに、さほどショックを受けていないらしい。
 かなみが見たところ、他の壊された家よりも念入りに壊されていた青年の家。
 家具から床から壁からなにまで、木っ端微塵に砕かれていたランスの家。
 かなみが『月だ、月〜』と騒いだり、無理に明るく装ったのは青年の気を晴らすためだった。
 家を見た直後の青年は頬を引きつらせていたから、落ち込んでいるのかもと気をつかったのだ。
 気を使う必要なんてなかったらしい。痛む後頭部は、とても落ち込んだ人間が放った痛みというには余りに痛い。
 しかし、痛みが却って嬉しい時もある。
 青年は何もいってくれないので、かなみは青年の気持ちを『拳骨』で判断するしかない。
 強い拳骨は、かなみにとって『強いランス、いつものランス』を示している。
 と、すぐ前にいたはずの青年が見当たらない。
「えっ? あっ!」
 キョトキョト見回すと、街道のずっと向こうを大股であるく青年がいた。
「ちょっ、待って、待ってよっ!」
 重そうな荷物を担ぎ、トテトテと青年の後を追うかなみ。
 髪の毛がピンク色で、髪型がもこもこヘアで、
 『ランス様ぁ』という呼び声があれば……あれば、全く違和感のない光景。
 しかし、ピンク色も、もこもこヘアも、『ランス様』もここにはいない。
 小柄なくの一と不機嫌な青年を、満月が穏やかに照らしている。




 ・・・あとがき・・・
 シィル中心です。
 自分が書くと、シィルって独り言ばっかりになります。
 我ながら内面描写が難しくて……だから独り言使って内面を喋らせちゃうんですよね。
 あと、この頃ランス達がどうしてるのかも書いてみました。
 ハイパービルでメガラスを傷つける直前、という設定です。(冬彦)




















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