八話 北の支配者達かつて『北の白耀宮』と仇名されたラング・バウ。 もはや雪に勝るとも劣らなかった白さは朽ち、手入れをするものもなく黒ずんでいる。 姿は変わったけれど、変わらないものもある。それはラング・バウが今も昔もヘルマン統治の要だということ。 ミスナルジ王家を引き継いだバボラ一派もまた、ラング・バウをもって自分達の集う場所と見なしている。 バボラ一派。鬼の魔人・バボラと彼の使徒キンケード、キンケードの部下(?)コンバートらを指す言葉である。 ではキンケードがバボラから血の儀式を受けて使徒になったのかというと、そうではない。 平たくいえば、『バボラはキンケードを使徒だと勘違いしている』のだ。 ―――――― バボラは知能に難がある魔人だった。 故にケイブリスが魔王となり、人間界へ大々的に侵攻を開始した際に、 共に番裏の砦を攻めるも本隊にずっと遅れてしまう。 彼が砦へたどり着いた時分には、戦闘は既に終結していた。 彼は一人置いていかれてしまったのだ。 青の正軍を文字通り瞬殺したケイブリスは、 てんでばらばらに逃げる副軍を蹴散らしながらローゼスグラードへと……バボラを忘れて侵攻する。 残されたバボラは律儀にも『ぷちぷち〜ぷち、ぷ、ぷちぷち』と意味の不明瞭な呟きを漏らしながら、 半死半生になった兵士達を踏み潰すよりなかった。 一方キンケードはといえば。 壊走する副軍と共に逃げていたキンケードだったが、逃げる途中で走る向きを変える。 彼なりの賭けだった。このまま部下と共にリーザスへ逃げるか、それとも別の道を行くか? キンケードは一見無謀とも見える賭けにでた。即ち元来た方角へ向かって駆け出したのである。 いたづらに戦場から遠ざかろうとしては、却って追撃の的となることに気づいたのだ。 大勢が同じ方向に逃げて死を迎えるならば、 自分は別の方角へ逃げる――指揮も戦闘もなにもなくなった部隊では、 個人の才覚のみで生き抜くしかない。 キンケードは戦場に戻った。戦場といっても砦の残骸と、中央に空いた馬鹿でかいクレータ以外は存在しない。 魔物共は皆追撃に移っていて、敵と思しき影は見当たらなかった。 キンケードは賭けに勝った――筈だった。 魔人バボラが、その醜い巨体を現すまでは。 バボラとリーザス青の軍副将キンケード・ブランブラ。 二人が出会った場所は、以上のような死臭と流血が入り混じる戦場だった。 誰もいない平原で、ただ二人見つめ合うバボラとキンケード。不思議そうに生きている人間に手を伸ばすバボラ。 恐怖と、それでも事態を打開しようと真っ白になった頭を懸命に動かすキンケード。 それからどのような経緯を経て今に至るのか、キンケードもバボラも覚えていない。 が、そこにはそれなりの経緯があった。 『わ、わわわ私は貴方の下僕です、部下です! だ、だからころ、こっ、殺してはいけません!』 『? お、お、おでのぶ、ぶか?』 『そう、そうなんですよ! だってこんな誰もいない場所で貴方を待ってるなんて、私以外にいないじゃないですか!』 『お前、知らない……おで、お前のこと知らん』 『貴方は知らなくても私は知っていたんです。 それで、貴方の部下になりたくてここでこうして――な、何でも言うことを聞きますから、命だけはっ……!』 『? ……お、お前何でもいうこと聞くのか? なんでおでの言うことを聞く?』 『そ、それはもう! 命さえ助けてくださればなんなりとっ』 『いうこと聞く……も、もじかしておでのし、使徒になりだいか?』 『は、はい! 私は貴方のシトです!』 『でえ? ……お、お前、おでの使徒か?』 『はい!』 『……』 『……多分』 掻い摘むと次のような会話があったわけで、 とにもかくにもキンケードはバボラに取り入ることに成功したのだ。 キンケード自身何が何だか分からないうちに、バボラは『使徒〜♪ お、おでのし、し使徒〜♪』とはしゃぎだし、 キンケードを肩に乗せるとヘルマンへ向けて歩き出す。 肩に乗ったキンケードもまたバボラの機嫌を損じまいとして、『シト〜♪ シト〜♪』と謳っていた。 『シト』が『使徒』を意味することに、全く気づかないキンケードだった。 その後なし崩し的に『バボラの使徒』という立場が定着し、今に至っている。 ―――――― バボラ一派とはいいつつも、バボラは朝も昼も夜も寝てばかりなので、 実質的にキンケードとコンバートがヘルマンを治めている。 そのキンケードが今日魔王城から帰ってくるというので、コンバートはラング・バウ一室に待機していた。 太陽は大空高く昇って、ひとしきり北の大地を照らしてから沈んでしまった。 日暮れが近づくとメッキリ寒さが増してくる。 「はぁ。キンケードはんえらい遅いなぁ」 執務室でふんぞり返る小太り男、コンバート・タックス。 予定だと昼下がりにはキンケードが戻ってくるはずなのに、どうしたんだろうか? 手持ち無沙汰なのでコンバートは眼鏡を外し、手近にあったハンカチでキュキュと磨く。 レンズに付着した脂肪分はほとんど見当たらない。それもそのはずで、五分に一回の頻度で眼鏡を磨いているのだ。 「せっかくのご馳走が冷めてもうた。はぁ〜あ、もったいないことしたわ」 執務室に設えられた中テーブルには白い覆いがかけてあって、良い匂いを醸し出している。 出来たてならもっとずっと美味しかろうと思うと、 「こない遅うなるんやったら、ちゃんと言ってくれなこまるでー……」 しみじみと思うのだ。 食糧事情が極めて悪いヘルマンでは、 いかにコンバートクラスの人間でも『ご馳走』と胸を張れる食事は月に数回しか食べられない。 目の前のテーブルに載っている『うし』のステーキなんて何ヶ月ぶりだろうか? 材料を選ばないならば、そこそこおいしい物が比較的簡単に食べられる。 例えば『きゃんきゃん』の肉、『ライカンスロープ』の肉といった女の子モンスターの肉だ。 柔らかくて栄養価もあり、人間を食べているような感覚さえ麻痺させれば実に美味しい。 他にもちゃつみ等一部モンスターは食用になる。 とはいえモンスターを殺して食用にするなど、モンスター支配下にある人間が出来るわけもない。 出来ることといえば事故ないし同属間の争いで命を落としたモンスターを調達することくらいだ。 比較的簡単とはいいじょう人間からは手の届きにくい食料に違いはない。 とことん材料を選ばないならば、実に簡単に、かなりおいしい物が食べられる。 ヘルマンという寒い国のなかでも特に寒いログA、シベリアといった地では朽ちた命が大地に帰ることはない。 燃やして灰にする以外、人の魂が天に昇ることはない。燃やさない限り、死体はいつまでも死体たりうる。 飢え死ぬもの、モンスターとの事故が生んだ犠牲者。 死体は日に何十人とでるのだから、肉の種が尽きることはないのだ……。 「待つんやなかったなぁ。せやけど」 コンバートはピカピカになった眼鏡をかけ直し、溜息を一つついた。 冷静に考えてみれば料理を心配している場合じゃないのかもしれない。 これだけ帰りが遅いということは、キンケードの身に不都合があったとも十分考えられる。 「キンケードはんのことや、なんやそれなりの理由があるんやろ。 わてはこうして楽さしてもろてるんやから、贅沢はいえんな」 一人頷くと、 「ええいしゃあない! くよくよしても仕方あらへん、こうなったらとことん待ちますで!」 男らしく断言した。 同日夜遅く。ラング・バウ執務室にて。 「はぁ〜! す、すると新しい魔人はんて『リーザスの裏宰相』はんだったんでっか!」 「モグモグ……解らんだろうな、広間に入った瞬間私がどれだけ驚いたか。 背筋が凍るとはああいうことなんだろう……モグモグ」 「そらまたえらいご出世で……魔人になられるとは……」 テーブルをはさんでキンケードが上座に、コンバートが下座に座っている。 コンバートは口をあんぐりさせたままキンケードに聞き入っていた。 しきりに皿へナイフを伸ばし料理をパクつくキンケードとは対照的だ。 「あんな寒い対談は初めてだったぞ? リア様といいランス王といいマリス様といい……私の上司はどうしていつもこうなんだ、くそっ……モグモグ」 肉にかぶりつくキンケード。普段なら上品に切り分けてから口に運ぶのに、珍しいことだ。 きっと会談で気が立っているのだ、とコンバートは思った。 「モグモグ……しかも、だ。マリス様は元上司――というか、リーザス時代の上司で、しかも再び上司ときた。 いや、上司なのか? 私の上司はバボラで、バボラの上司がマリス様――?」 ナイフを止めて考え込むキンケード。キンケードにとって、『上司→部下』が支配体系を理解する手段だ。 魔人という複雑怪奇な存在を理解するには『上司・部下』では駄目だが、彼は魔人の本質を全く理解していない。 したがって自分とマリスの今後を考えた時、思考が纏まってくれなかった。 「? ということは、私はマリス様とバボラの両方にこき使われるのか? ――いや、マリス様はバボラに仕えろとおっしゃったわけで……?」 「なんやややこしそうでんな」 コンバートの気楽なつっこみ。キンケードはコンバートをジロリと睨んだ。 「人事みたいに言うな。お前だって関係あるんだぞ」 「へ? わてに関係?」 「うむ。マリス様は賢いお方だ。 ……バボラと違ってな」 それも類稀な賢さだ――と、心の中で付け加えるキンケード。 リーザス時代に垣間見た事務能力の凄まじさは、軍人では自分が誰よりも知っているという自負がある。 マリスが担当した出兵に関しては、補給、武具、攻城器具からなにまで滞りなく調達されてから出兵できた。 現場レベルにはノータッチという姿勢を保ちつつも、 しっかり独自の諜報部員を配置し内情の九十九パーセントは把握されていた観まである。 さらに言えば建築も、税制も、法律も、なにからなにまでマリス一人でこなせるのだ。 言い換えればあらゆる制度に精通しているわけで、魔法まで使える。 これで二十代前半の女だというから、心の底からありえないと思う。 口を閉ざしたキンケードに、 「そりゃあ『裏宰相』て呼ばれるくらいやさかいに」 曖昧な相槌が。キンケードはヤレヤレと肩を竦めた。 「いいか? これまで私達を監視する存在はなかったんだ。バボラなんて、ただの馬鹿だからな」 「なんやそないなことですかいな…… その、マリスはんがワテらを監視するから気を付けろ――とでもいうんでっしゃろ?」 「む……そ、そういうことだ」 コンバートにあっさり先を取られ、拍子抜けした恰好。 「マリス様は元人間だ。恐らく我々の悪事にも気を配っていて、我々が図に乗ったら速攻でコレ、だ」 自分の首に人差し指をあて、チョイチョイと左右に振るキンケード。 「何しろマリス様だ……魔人になってどのようなお力を持たれたかは知らんが、絶対に凄い能力を身につけていて――」 肥大してゆくマリスへの恐怖。顔をあげていられなくなり、キンケードは皿に視線を落とした。 口跡がついたモモ肉がうそ寒い。と、頭上から暢気な声がした。 「何も心配することあらへんと思いますで」 「なに……?」 「せやから、ワテらがマリスはんに苛められることはないっちゅうことですわ」 キンケードは顔をゆっくり持ち上げた。眼鏡を外し、ナプキンで磨いているコンバートが目に入った。 「何故そういえるんだ?」 「よう考えてみれば解りますやろ?」 当たり前のように眼鏡を拭いている。 キンケードがどんよりオーラを撒き散らす一方、まったく動じた様子を見せないコンバートがいた。 「……解らない。我々は人間にして魔人に仕えているのだぞ? マリス様が良く思うはずないだろう……」 またしても俯くキンケード。 「しかもだ。私がリーザス青軍を捨てたことまで知れてしまった……あああ」 コンバートはほっておけばどこまでも沈んでいきそうなキンケードを溜息で見送った。 普段は冷静かつ頭脳明晰なキンケードにしてこの体たらく。 余程マリスとかいう人間が魔人とたって現れたことがショックらしい。 どうやらキンケードは人間を裏切ったことに怯えているようだ。けれどまるで見当違いに思われる。 人間を裏切ったことを罪とするのなら、マリスとかいう女性こそ最も罪が重いはず。 魔人になった人間が、魔人に仕える道を選んだ人間を褒めこそすれ、罰するなんてありえない。 キンケードにはこんな簡単なことが解らないのだろうか? 恐らくキンケードは、嘗ての上司マリス・アマリリスと魔人マリスを混同している。 コンバートはキンケードに『マリスはんはキンケードはんの知ってる人とは違いまっせ』と言う代わりに、 こういう言葉を選んだ。 「だってワテら、なんも悪いことしてませんやん」 「うん?」 「せやから、ワテらがどないな罪で苛められるっちゅうんですか。 それともキンケードはん、人に言えんようなえげつないことやってますか?」 「そんなわけないだろう! わ、私は……そ、それよりお前だ。汚いことならお前の方がよっぽどやってるだろう」 「心当たりおまへんで」 皿の上にナイフを伸ばす。冷えて硬くなった肉を上手に切り分ける。 ブツブツに切って口に放り込む。キンケードは口を尖らせた。 「モンスターに逆らった連中の家に火を点けたり、ビシビシに取り締まってたじゃないか。 他にも人間用に供給する筈だった薪をモンスター用に転換したり、他にも――」 「アホいわんといてくださいよ。それってぜーんぶ魔人はんの指示でっせ? 『何事もモンスター優先、人間は二の次』、これが新しい方針やないですか」 「むむ」 「そら業務上人間に辛くも当たりますて。逆らう奴は見せしめにちょこっと痛い目におうて貰います。 けど長い目で見たら、そっちの方がずっとええて思いまへんか?」 溜息交じりに続けるコンバート。 「下手に逆ろうて殺されるより、家なくす方がよっぽどマシや。 第一魔物将軍はんが治めてるラポリなんざより、ワテのログAのがよっぽど人間多いでっせ? キンケードはんのイコマも戦前より人口増えたそうやないですか」 「まぁ、な」 貧相な髭に触れる。 チョイチョイと髭をしごく癖は、自分を平静に保とうとするときにキンケードが見せる癖だ。 「だいたいキンケードはんがいう『悪事』ってなんですのや。『悪事』って『贅沢』のことでっか? ワテ、自慢やあらしまへんけどごっつぅ質素な暮らししてまっせ? 肉だって『うし』なんざ一月振りでんがな」 放り込んだ肉をしっかり噛む。肉汁が溢れてくれば申し分ないけれど、生憎冷めていてそうはいかない。 「……言われてみれば、私も久しく食していなかったな」 コンバートにつられ、キンケードも再び皿にナイフを伸ばす。 「住んでる場所だって汚いもんですわ。市庁のボロ部屋にちょっと手を入れただけですさかいに」 「確かに酷い部屋だったが……まだあそこに住んでたのか?」 「何分ログAは寒うて寒うて、市庁くらいしか暖かい建物があらしません」 ゴクリ。散り散りになった肉を飲み込む。 「贅沢いうて思い当たるんはせいぜい女くらいのもんや。 ま、たしかに四人からのちっちゃなハーレムは作ってます。けど」 スープにスプーンをいれる。音を立てず啜る様子は、顔に似合わず礼に叶っている。 「それでもモンスターに親御さん殺された娘達から見繕ってるんやから、 感謝されこそすれ非難されるんは筋違いでっせ。このご時世に三食喰わせて貰ってまんのやから」 「そ、そうなのか」 ズズー。コンバートに習い、キンケードもスープを掬った。こちらは僅かに雑音を立てて啜りこむ。 「キンケードはんがやったことに比べたって知れたもんですわ。 キンケードはんときたらイコマ一番の豪邸を分捕って、 イコマ一番の女を分捕って、 イコマ一番の料理人を連れてきて――」 「ま、まてまて」 キンケードは思わず身を乗り出していた。 コンバートを喋らせておけば、まるで自分がコンバートよりも悪人かのような口ぶりではないか。 「? なんでっか?」 「訂正だ、訂正! お前の知識は穴だらけだぞ」 「穴? ワテ間違ったこといいました?」 「間違ってはいないが、それだと私がウハウハな暮らしを満喫してるみたいじゃないか!」 「ワテよりかはウハウハやと思ってましたが」 眼鏡をかけなおすコンバート。キンケードは深い溜息を漏らした。 「ウハウハなものか。豪邸はバボラの馬鹿が突然やってきて踏み潰すから、今現在は市庁暮らし。お前と一緒なんだぞ」 「ふ、踏み潰す?」 「大変だったんだぞ……? 夜中地響きがして慌てて飛び出したから良かったものの、あのまま中にいたら間違いなくペシャンコだ。 お前もバボラに気に入られてみろ、一日中死の危険が味わえる」 眉間に皺を寄せるキンケードは、どうみても豪邸で優雅に暮らす顔ではなかった。 彼は悪夢を思い出していたのだ。 『しど〜、おでのしど〜』と喚きながらキンケードを訪れたバボラ、崩れゆく新しい我が家、 握り締められて変な音を立てる肋骨達……。 バボラに気に入られてからというもの、醜い巨体の影に怯えっぱなしの生活が続いている。 「まぁいい、次だ次。次は料理人だ」 頭を振って嫌ぁな記憶を片隅に追いやる。 「料理人も一応、いる。それも素晴らしい男でな、よくもまぁ芋一種類でと感心するくらい、レパートリーがある」 「はぁ……い、芋でっか?」 間の抜けた相槌が入った。マリス魔人化を聞いたときと同じように、目をパチクリさせるコンバート。 「芋だ。はっきりいって、芋料理しか食していない。土地柄もあって芋と、せいぜい菜っ葉くらいしか育たんのだ」 「な、なるほど」 「湯で加減などは絶品だ。おそらく、世界でも芋一つにああも情熱をかける料理人はいないだろうな。 あいつにリーザスの調味料を使わせてやりたいよ。 塩だけでそこそこ上手い料理を作るんだから、胡椒やすだちがあればどれほど上手いことか……」 「……」 しばし沈黙が食卓を支配した。沈黙を切ったのはキンケード。 「……羨ましいだろう? いい料理人がいて」 「せ、せや、女の方はどうなんです? さぞかしブイブイいわしてますのやろ? いや〜、キンケードはんはワテと違って二枚目ですさかいなぁ!」 コンバートは直接質問に答えず、話題を変えることにした。 羨ましいというのも、羨ましくないというのも、どちらも失礼な気がしたからだ。 わざとらしい振る舞いにも、翳りある面持ちを変えないキンケード。 「……聞くな」 「へ?」 「だから、聞くな、といっている……」 これまでに見せたとは別種の、人間存在に関わる沈痛さがキンケードを支配していた。 さしものコンバートでもたじろがざるを得ない――そんな暗黒の闇。 ―――――― キンケードだって出来るものならガンガンやりたかった。 成り行きとはいえ都市を統べる王になったのだから、 リーザス王ランスがそうであったように、色と欲に溺れた暮らしをしてみたかった。 だが……出来なかったのだ。 彼の部下に占領地での強姦を許したこともあるし、彼自身が強姦を働いた経験もある。 勝者の特権の名の下で、無抵抗な女をしたい放題したことはある。 それも今は昔の話。戦場という、日常と隔絶した世界だからこそ、良心を捨てて好き放題できたんだろう。 支配者キンケードと、被支配者の女達。ともに日常をイコマに持つもの同志なのだ。 そんな中で己の分身を肥大化させるほど、キンケードは太い肝をしていなかった。つまり……、 ―――――― 「……なかったのだよ……」 小鳥の囀りよりも小さく、コオロギの囁きよりも聞き取り憎い声。 「は? なんかいいました?」 無神経に聞きなおすコンバート。 キンケードは肩をピクリと動かすと、いきなり身体を起こして椅子から立ち上がった。 ハラリと床に落ちるナプキンと、仰け反るコンバート。 「へ、へっ? ど、どうなさったんでっか?」 「……っ」 声帯を震わせ、もう一度言う――ほど、キンケードはデリカシーがない人間ではない。 諦めたように吐息を漏らし、彼は椅子の背もたれにかけてある外套を掴んだ。 「……私はもう行く。考えてみればお前の言うとおりだ。心配などするものか!」 「あ、あのー」 「マリス様に疚しいことなど何一つしていないのだ、怯える必要はない!」 「いっ!?」 訳のわからない気迫をぶつけられ、コンバートは手で顔をガードした。 「話した通り、明後日にもカオス捜索を始めるからな。準備は任せたぞ!」 ファサッ。群青色のマントを翻し、キンケードは呆気に取られるコンバートを残し、執務室を後にした。 一人食卓で唖然となったコンバート。 「な、なんやねん急に元気になって……ホンマにもう、かなんなぁ」 チッ。舌を鳴らす。 「アリストテレスはんやあるまいし、こう気持ちを上下されると困るで……下に仕えるもんとしては」 ブツブツいいながらキンケードが残したモモ肉に手を伸ばす。 「ワテの上役っていっつもこうや……堪らんなぁ……モグモグ」 一人になった途端、コンバートから礼儀作法が消えた。 ぺチャぺチャ音を立ててスープを啜り、がぶがぶと肉にかぶりつく。 「この調子やとあの人も潰れるんやろか?」 魔人にいたづらに怯えた挙句、やけになって気合をいれたっぽいキンケード。 恐怖から目を逸らしているようにとれなくもない。 根拠なくステッセルを恨みつづけ、挙句発狂した嘗ての上司の記憶が蘇る。 「……まぁ、キンケードはんは柔軟なお人やさかい、潰れはせんやろうけど」 アリストテレスは良くも悪くも真面目だった。真面目で、怖ろしくキレる人間だった。 頭が鋭い人間は良くも悪くも『切れ』安い。 コンバートが見るところ、キンケードにはその手の切れはなさそうである。 「しかし難儀なことやで〜。 キンケードはんにはああいったものの、魔人にもワテらに精通したモンがおるっちゅうんや。 そら肩身は狭くなるわなぁ」 ポイ。綺麗に肉が削げて骨だけになったモモ肉をゴミ箱へ投げる。 骨はゴミ箱からそれ、以前は手入れが行き届いていただろう絨毯に茶色い染みを作った。 「偉くなるっちゅうのは気の迷いやったんかなぁ。素直に戦場漁りを続けた方が良かったんやろか?」 スードリ平原で大量に生産された死体と、武器、防具。 コンバート率いる一団が生命がいなくなった戦場に跋扈し、次々と目ぼしいブツを奪い去る。 世界はまさしくパニックの真ん中にあり、自衛、防衛を問わず武器は飛ぶように売れた。 こうして出来た金を元手に、 また一人の若い青年死体から奪った剣をきっかけにして、彼は魔人に取り入る道を選んだのだが、 「やってみると中々どうして、苦労ばっかりで元が取れんわ……」 商人<支配者という構図ゆえに、一度はなってみたい支配者だった。 だが彼の知っている構図は人間が世界を治めていれば、の話だった。 魔人全盛の現在にあって、彼よりも幅を利かせている商人も沢山いる。 決して商人は支配者の風下に立つ存在ではないのだ。 人は彼を『最も成功した部類の人間』と見なすだろう。 ただ自分で自分をそう思うかというと、コンバートには『そこそこ成功した』程度にしか思えなかった。 「……ま、しゃあない。乗ってしまった船なんや、これもある意味商売道具や」 一頻り食卓を片付けると、コンバートはナプキンを投げ捨てて立ち上がる。 商売道具……彼が治める三都市と、キンケードを通じて出来た魔人とのコネクションだ。 どういう使い道があるのか予想もたたないけれど、都市からは徴兵が出来るし、 魔人と知り合いだからこそ可能な商売もあるに違いない。 「コイツはいつか高値で売れる。ワテの直感がそういっとるんや……!」 呟いてから呼び鈴を鳴らし、メイドさんを呼んで後片付けを命じた。 そして、コンバートも執務室を後にした。 後にはせっせと皿を重ね、床に落ちた骨を拾うメイドさんが、 数年前の――シーラやパメラが居た頃の――ラング・バウを彷彿させていた。 その頃、キンケードはラング・バウ内に設えた自室に向かい、せかせかと足を動かしていた。 彼の中に生まれた恐怖を振り払おうと、懸命に自分に言い聞かせながらだ。 ――そうだ、マリスに怯える必要なんてあるはずがない。 考えてみれば自分こそ被害者であって、リーザス時代の方が百万倍楽しく暮らせていたじゃないか! 省みてバボラに怯え、翻ってマリスに怯え、哀れな人間には同情してしまうわ、 まずい食生活に堕ちるわ、仕事の量・質ともに増大するわ……メリットと比べてデメリットの方がずっと多いのだ。 ――自分が良い目に逢っていないのだから、多分、自分は悪くないのだ。 「そうだ。私は悪くない――」 ブツブツと足元に呟きながら、キンケードはラング・バウ内を闊歩するのだった。 ・・・あとがき・・・ キンケードとコンバートの話です。 反省点は、ちょっと二人を美化しすぎたかな、と。 良かったと思っているのは……久しぶりに関西弁っぽい文章を書いたことです。 っていうか、コンバートの口調って関西弁じゃないですよねー。 短いですが、四章お終いです。 次回から再びランス視点に戻ります。(冬彦) |
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